2013/08/09
こんにちは。
社長の荒川です。
「立秋」の到来とともに、
「猛暑」が始まりました。
午前午後を問わず、暑い日が続きます。
今回は、茶の湯釜の話です・・・・
あいかわらず、マニアックな話題な上、
文章ばかりになりそうです・・・・
(説明文ばかり・・・)
しかも、黒い物体の写真ばかり(笑)
まぁ・・・
しばらく、お付き合いをお願いします。
先日の日曜日、表千家による「市民講座」が
富山電気ビルで開かれました。
これはお楽しみ・・・と
お昼から出かけ、講演を聞いてきました。
講師の先生は、
「千家十職」(注1)の釜師 16代大西清右衛門氏。
(注1) 千利休直系の千家流家元にお出入りが許された10名の職家
千家との付き合いは、古い家で利休の桃山時代。新しい家でも江戸時代中期。
大西先生の講演は、
あっという間に、2時間が過ぎてしまい。
大西先生も、まだまだ話足りないご様子でしたが、
諸般の事情もあって、3時半に終了となりました。
大西先生のご先祖 10代大西浄雪(江戸時代中後期)の作品
「累座富士釜」(表千家7代目家元のお好み)
胴から大きな羽が出ています。
おそらく、富士山にかかる霞か雲をイメージしたものと思われます。
お話・・・いろいろ興味深く拝聴した中から
心に残ったお話を1つ紹介します。
利休の釜師「与次郎」(桃山時代)は
分厚い「羽落ち」(注2)とし、
穴があいて水漏れすることを厭わなかった。
穴は、漆と鉄粉を混ぜた物で塞いだ。
(注2) 安土桃山時代、
室町以前に作られた釜の寸法が大きかったことから、
1尺4寸(約42cm)の「炉」にあわせる為、
釜の羽の部分(富士釜の写真をご参照)をハンマーで打ち壊し、
五徳を据えて炉の釜として使っていた。
その羽を打ち壊した部分を「羽落ち」と呼びます。
元々は、寸法合わせが目的の「羽落ち」が、
釜の観賞ポイントの1つとなり、
桃山時代以降、わざわざ羽を作って壊しています。
当時(桃山時代)の人達は、
釜の製品としての品質(水漏れ)よりも
表現(注3)を大切にした。
(注3) 450年前(桃山)の人達も、現代と同じく、550年~600年前(室町)の釜に憧れ
近づこうと試行したのでしょうか。
「羽落ち」部分のクローズアップ写真です。
しかし、
その後、時代とともに「羽落ち」の厚みは薄くなり
製品としての歩留まりが良くなったが
激しさ・力強さを失っていった。
先程のクローズアップ写真の全体図
10代大西浄雪の弟 了保(江戸時代中後期)の作品
「刷毛目釜」(表千家8代目家元のお好み)
「鉄」で柔らかさ・軽みを表現している・・・と思います。
桃山から江戸の初めにかけて
古田織部や本阿弥光悦などが
焼成中の傷や割れなどおかまいなしに
焼物を作り、使っています。
製品としての不完全さ(水漏れ)よりも
美術品としての表現を優先したのだと思います。
ゆがみ・割れが、単純に面白さ・・・ではないことに気をつけたいと思います。
今回の桃山のお話
市中の建築屋の身にとっては、雲の上の話ではありますが
物づくりの仕事を愛する者として
憧れをもちます。
あくまで、製造物責任の範囲で・・・・となりますが